「J・S・ミル」(著:関口正司)

自由原理を根拠としない理由

 次にミルは、二つ目の課題として、重要な自由として認めるべきだが、自由原理を正当化の根拠としない自由を論じている。具体例とされているのは、商取引の自由である。

 商取引は、他者に大きな影響を与える行為である。危害をもたらすこともあり、本来的に他者に危害を与えることのない個人的行為とは区別する必要がある。「この原則の根拠は、本書で主張している個人の自由の原理と同程度に強固であるが、しかし、個人の自由の原理とは別のものである」(210頁)。その根拠は、規制よりも放任の方が社会全般の利益につながるという、経済の世界での一般的な事実にある。他方で、社会全般の利益(効用)に反する場合、たとえば、混ぜ物で品質をごまかすとか、労働者を保護しない労働契約など、危害を取引相手にもたらす事例は、当然のことながら規制や処罰の対象になる。

 ミルはさらに、商取引を含めたこの種の自由において当事者がつねに守るべきモラルについても、『自由論』の最初の章で次のように指摘している。

 

  こうした理由のために責任を課されないときには、行為者本人の良心が、空席と 

  なった裁判官の席に着いて、外からの保護を受けられない他の人々の利益を保護

  すべきである。そして、この場合は、他の人々の裁きに対して責任を負わなくて

  も良いのだから、なおさら厳格に自分を裁くべきなのである。(32頁)

 

 今日でも、やましい行為や品性を欠いた行為をしておきながら、自分は法令違反はしていないと言い訳をする人間がいる。しかし、法的な規制がない場合やなくなった場合でも、自分を律するモラルをなおざりにしてはならないというのが、ミルの考え方だった。

 

制度の積極的欠陥

 統治体制における積極的欠陥がもたらす弊害としてミルが注目するのは、統治権力による邪悪な利益(シニスター・インタレスト)の追求である。これは、ミルにとって、ベンサム主義に傾倒して以来のなじみ深いテーマだった。しかし、この問題は民主政的な統治では原理的に生じないという見方は、『自由論』の冒頭でも示されていたように、すでにミルははっきりと放棄していた。権力を持つ人間は誰であれ、邪悪な利益を追求する傾向を持っている。日常のふつうのふるまいでは良識や思慮を示していた人であっても、権力を持つと人が変わったようになる。

 

 ・・・自分が他者と共有している利益よりも自分の利己的利益を優先する性向と、自分の利益のうちで間接的な遠い将来の利益よりも目先の直接的利益を優先する性向という、今問題としている二つの邪悪な性向は、何にもまして特に権力を持つことで引き起こされ助長される特徴である。一人の個人でも一つの階級でも、権力を手にすると、その人の個人的利益やその階級だけの利益が、本人たちの目から見てまったく新たな重要度を帯びてくる。他人が自分を礼賛してくれるのを目にすることで、本人も自らの礼賛者となり、自分は他人の百倍も価値あるものと見られて当然だと思うようになる。その一方で、結果を気にせず好きなようにする手段が容易に得られるようになるために、結果を予測する習慣が、自分にまで影響が及んでくる結果に関してすらも、知らず知らずのうちに弱まっていく。これが、人は権力によって堕落するという、普遍的経験にもとづいた普遍的な格言の意味である。(114ー115頁)

 

 「権力は腐敗する」という格言は、耳にする機会が多いものであろう。しかし、なぜ腐敗するのか、腐敗をもたらす心理はどんなものか、というところまでに踏み込んだ議論はほとんどない。そのため批判の対象にこの格言を適用しても、批判している当事者にも同様の可能性があることにはなかなか思い至らない。しかし、自由を情熱的に求め抑圧に強く反発するミルは、そうであればこそ冷静に、権力を持つことの普遍的な心理的影響について鋭利な観察を示している。