「アダム・スミス」(堂目卓生)

スミスの幸福論

 この物語に登場する「貧乏な人の息子」は、自分よりも優れた身分の人々の生活に憧れ、富と地位を獲得するために全生涯を捧げる。彼は、勤勉に働くだけでなく、憎悪する人々に奉仕し、軽蔑する人々にへつらう。こうして、彼は、いつでも力のおよぶ範囲にある真実の平静を犠牲にする。しかし、彼が実際に富と地位を手に入れてしまうと、彼は、それらが取るに足らない愛玩物以上の満足を与えてくれないことを知る。この主人公が、富と地位に対して与えられるはずの他人からの称賛に満足している様子はない。それどころか、彼は、他人からの不正、背信、忘恩、侵害、失望のために、いらだち、怒っている。彼の境遇は幸福からは程遠いといえる。この物語は、富と地位によって、貧乏な父よりも幸福な生活を送ろうとした息子の夢が幻想でしかなかったことを示す。この物語の後に続く文章で、スミスは、私たちは、健康なとき、元気なときには、富と地位の優雅さに魅惑され、それらの獲得が自分の苦労と懸念のすべてに十分値すると想像し、満足すると論じている。しかしながら、スミスは、富や地位が個人に不変の幸福を与えるとは決して述べない。

 別の箇所で、スミスは、失脚した政治家が、いつまでも政界復帰の夢を捨てきれず、余生を悶々とした思いで過ごす話を例に、地位のあることに慣れた人、あるいは地位を求めることに慣れた人が、それ以外に喜びを求めることができなくなることを示す。

 

 真の幸福とは何であろうか。スミスは、幸福を次のように定義する。

 幸福は平静【tranquility】と享楽【enjoyment】にある。平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんな物事でも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。(『道徳感情論』三部三章)

 

 スミスにとって幸福とは心が平静なことである。貧乏な人の息子は、富と地位を獲得するために、「いつでも力のおよぶ範囲にある真実の平静」を犠牲にした。また、いつまでも政界に返り咲くことを願う失脚した政治家も、心の平静を犠牲にして生きている。いずれも、心の平静を保つためには何が必要十分であるかを知らないために、富や地位を求めすぎているのである。では、心を平静に保つために必要十分なものは何だとスミスは考えたのだろうか。

 

 健康で、負債がなく、良心のやましいところのない人に対して何をつけくわえることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。そして、もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮きだっているとすれば、それは最もつまらぬ軽はずみの結果であるにちがいない。(『道徳感情論』一部三編一章)

 

 スミスは、心の平静のためには、「健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」ことが必要であると考える。そして、この状態にあれば、財産の追加は余計なものだと言う。では、財産や収入は、まったくなくてもよいとスミスは考えるのだろうか。そうではない。この文章は、健康を維持し、負債を作る必要がなく、良心の呵責を感じるような行為(すわなち犯罪)をしなくてもよい程度には収入が必要であると読むことができる。つまり、その社会で最低限必要だとされる収入ーこれを「最低水準の富」と呼ぼうーはなければならないのだ。スミスは、最低水準の富が得られない場合、人は悲惨な状態に陥ると考える。

 最低水準の富がない、つまり貧困の状態にあることが、なぜ悲惨なのか、もちろん不便な生活を送らなければならないからである。しかし、それだけではない。その社会で最低限必要だとされる収入を得られない状態にある人々の悲しみや苦しみに対し、私たちは、同感しようとしない。私たちは、貧しい人を軽蔑し、無視する。このことが、貧困の状態にある人々をいっそう苦しめる。

 自分は世間から無視され、あるいは軽蔑されていると思う事は、人間の希望をくじき、平静を乱す。無感覚にならないかぎり、あるいは社会との関係を完全に断ち切らないかぎり、私たちは自尊心を傷つけながら生きていかなければならない。人間にとって、これほど辛く惨めな状態はないであろう。心の平静を得るためには、最低限の収入を得て、負債がなく、良心にやましいところがない生活を送らなければならない。しかし、それ以上の財産の追加は幸福を大きく増進するものではない。以上がスミスの幸福論である。

 

「徳への道」と「財産への道」

 スミスは、世間の尊敬と感嘆を得るためには、二つの違った道、「徳への道」と「財産への道」があることを示す。

人間の尊敬と感嘆に値し、それを獲得し享受することは、野心と競争心の大きな目標である。それほど熱心に求められているこの目標に等しく到達する二つの違った道が、われわれに提示されている。ひとつは英知の単協と徳の実行によるものであり、もうひとつは富と地位の獲得によるものである。(『道徳感情論』一部三編三章)

 私たちが「財産への道」を行くことは、必ずしも「徳への道」を放棄する事ではない。富や高い地位を求める過程の中で、徳や英知を身に付けることができるからである。実際、富や地位を獲得するための、ひとつの有効な方法は、徳と英知を獲得することである。人類は、富と地位だけでなく、徳と英知に対しても普遍的な尊敬の念を持っており、徳と英知をもつ人が大きな富と高い地位にふさわしいと考える。私たちは、悪徳と愚行を繰り返す人にではなく、徳と英知をもつ人に、富と地位の機会と便宜を与えようとする。こうして、「財産への道」を歩むことと「徳への地位」を歩むことが一致する。スミスは、この一致は、中流階級と下層階級の人々についてはあてはまると考える。

 中流及び下層の人々の多くは、「財産への道」を歩むことによって、「徳への道」を歩むことになり、英知と徳、特に慎慮、正義、不動、節制の徳を身に付けるようになる。したがって、商業が発達して、より多くの人々がビジネスに携わるようになれば、これらの徳が社会に広まることになる。

 これに対し、上流の人々が、より大きな富、より高い地位を求めることには、「徳への道」からの堕落を招く可能性が高い。

不幸なことに、上流階級の生活においては、事情は必ずしもつねに同じではない。王侯たちの宮廷において、また、地位ある人々の応接室において、成功と昇進とは、理解力があり豊富な知識をもった同等者たちの評価にではなく、無知高慢で自惚れが強い上位者たちの気まぐれでばかげた行為に依存するのだ。そこでは、へつらいと偽りが、あまりにもしばしば真の長所と能力に優る。上流社会では、喜ばせる能力の方が、仕事の能力よりも尊重される。(『道徳感情論』一部三編三章)

 しかしながら、「徳への道」を踏み外す危険性があるのは、上流階級だけではない。中流階級、下層階級の人々の中にも、上流階級の人々の富と地位を熱心に求めるあまり、「徳への道」を踏み外す人がいる。

この羨望される境遇に到達するために、財産への志願者たちはあまりにもしばしば、徳への道を放棄する。なぜなら、不幸なことに、一方に通じる道と他方に通じる道とは、ときどき正反対の方向にあるからである。だが、野心的な人は、次のように考えて自惚れる。すなわち、輝かしい境遇に到達しさえすれば、その中で、自分は人類の尊敬と感嘆をわがものにするための非常に多くの手段を持つであろうし、また、非常に優れた適宜性と品位をもって行為することができるであろうから、自分の将来の行動の輝きが、その高みに達するまでに用いた諸手段の愚劣さを完全に覆い隠し目立たなくするだろうと思うのである。実際、多くの政府において、最高の地位への志願者たちは法律を超える。そして、もし彼らが自分たちの野心の目的を達成できるならば、それらを獲得した手段について、彼らは説明を求められる恐れはないのだ。(『道徳感情論』一部三編三章)

 スミスによれば、「財産への道」は「徳への道」と矛盾することがある。富と地位への志願者たちは、「財産への道」を歩む中で、道徳的腐敗を起こさなければ、より大きな富や高い地位を獲得できない状況に立つことがある。このとき、多くの人間が「徳への道」を踏み外す。実際、富と地位への志願者たちは、しばしば、虚偽、陰謀、結託、贈賄、暗殺などを企て、彼らの出世のじゃまになる人間を排除しようとする。多くの場合、これらの企ては失敗に終わり、本人自身の人生を台無しにする。しかしながら、これらの企てに成功した者は、富と権力によって自分の過去の犯罪を隠蔽することができる。このようにして、富と地位への志願者たちによって、正義が侵犯される恐れがある。