何もしないほうが得な日本(著:太田肇)

 ところで経営の分野では、一般に日本企業は労使関係も雇用も安定しているので長期的視点に立った経営が行えるのに対し、株主重視の欧米企業は短期志向になるといわれる。はたして、それがどこまで一般化できる話だろうか。

 たしかに、そういう面はある。しかし見方を変えると、欧米では組織と個人の利害が一致しないことを前提にしているため、長期的な発展に必要な制度を設ける。イノベーションを引き出すため個人に与えられるストックオプションなどのインセンティブや、大胆な人材抜擢などがその例である。政府も教育や起業支援に膨大な投資を行う。

 それに対し日本では、組織と個人の利害が対立関係にあるという割り切った見方をしないため、思い切ったインセンティブが必要だという認識も薄い。ここにも、むしろ対立を直視することによって長期的な視野に立てるという、やや逆説的な面がある。

 要するに組織や社会が個人より上位にあり、前者が後者を包摂する点では日本と差がないように見えても、組織や社会を形成するプロセスや、権力を支えているものが日本とはまったく違うということに注意しなければならない。

 したがって欧米では全体の利益と一致しない個の利益が存在することを前提に、組織や社会が設計されているのである。

 それに対し日本では、繰り返し述べているように全体の利益と個の利益が調和する事を暗黙の前提にして制度がつくられ、運用されている。そこには社会契約の意識、つまり自分の利益や権利から出発して制度をつくっているという実感がない。そのため国や組織に対するほんとうの忠誠心は湧かないし、主体性も責任感も生まれない。

 契約概念の有無は、ある意味で性悪説性善説の違いだともいえる。契約、ルールで明確にしておかないと利己的に振る舞う者が現れるかもしれないというのが欧米式の考え方であり、契約やルールで定めなくても利己的な行為をする者はいないと信じるのが日本式の考え方だ。

 問題は性善説に立つ以上、「性悪」な行為に対処できないことである。さらに「性悪」な行為が野放しにされ、得をするようになると正直者が馬鹿を見ることになり、「性善」な者まで「性悪」な振る舞いをするようになりかねない。

 要するに「何もしないほうが得」という態度は利己的であるが、その責任は個人にあるというより、むしろそのような仕組みを放置した側にあるといえるのではなかろうか。