読書メモ 「財政学の扉をひらく」

財政学は希望を語れるか

 財政が私たちのニーズを満たすためには、財源が必要となる。ここで、第2章で述べたことを思い出したい。強制性と無償性を特徴とする税の負担に人々が同意できる状況を作り出すのは、政府への信頼と社会的信頼(人々同士の信頼)である。しかし、日本ではまさにこれら2つの信頼が低いのであった。

 政府への信頼を損ねている一因が財政がニーズを適切に満たしていない現状にあり、人々同士の信頼の低さが自己責任意識の強さと密接に関係していることは、明らかであろう。政府にお金を委ねることも、他者のために自分のお金が使われることも嫌われる社会において、「共同の財布」は成立しようがない。私たちのニーズを満たすためには、これまでより多くの財源が必要とされていく今後の日本において、これは重大な問題であるといってよい。

 さらに、戦後の日本では、経済成長により自然い増える税収を、社会保障給付を中心とする財政支出の拡大によってではなく、減税によって人々に還元する政策が重ねられた。経済成長が、人々の生活水準を着実に向上させ、財政も余裕を生み減税さえ可能としたことによって、人々のニーズの充足に貢献したことは間違いない。しかし、それは経済成長率が例外的に高かった1970年代までの話であり、いまやその負の遺産が日本財政をむしばんでいる。

 負の遺産とは、「増税によって公共サービスが充実し、より良くニーズが満たされていく」という経験の欠如にほかならない。それは、次のように租税負担への同意を妨げている。まず、増税がニーズの充足を後押しするという経験の欠如は、「増税=負担増=悪」といった理解を定着させた。また同時に、「増税がいかなるニーズの充足につながるのか」という問い、すなわち負担と給付(受益)とを一体的に問う観点も、著しく弱められることになったのである。

 ニーズの充足を急速な経済成長に任せるわけにもいかず、むしろ経済成長のいかんによらずニーズが必ず満たされる社会をめざすべき今日の日本にあって、租税負担への私たちの同意は決定的な重要性を帯びている。税により財源を増やせなければ、ニーズがより良く満たされることはない。ニーズを満たすという財政本来の使命が、財政赤字を改善するという目的に従属してしまう近年の状況は、財源の充実抜きには克服しえないからである。また、増税を忌避するあまり、際限なき公債発行が可能であるかのような主張も最近みられるようになったが、その主張の当否が十分に明らかではない以上、財政運営には一定の節度が求められる。少なくとも、生存そして人間的な生活の保障に直接関わる社会保障給付のような経費については、税で確実に財源を確保することが不可欠だと考えるべきである。

 私たちが生きる今日の日本においては、財政の存在意義が忘れ去られてしまっているようである。繰り返すが、財政とは、私たちが生存のために不可欠とする共同作業と相互扶助を補完すべく、ともにニーズを満たし合うための「共同の財布」である。そして、税はそのために「共同の財布」にお金を委ねるものである。