読書メモ:「歴史戦と思想戦」(著:山崎雅弘)

権威主義国に共通する特徴

  1. 時の国家指導者の判断は常に正しいとみなす「国家指導者の権威化」
  2. 時の国家指導者とそれが君臨する国家体制を「国」と同一視する認識
  3. 時の国家指導者に批判的な国民を「国への反逆者」として弾圧する風潮
  4. 国内の少数勢力や近隣の特定国を「国を脅かす敵」と見なす危機感の扇動
  5. その国家体制を守るために犠牲になることを「名誉」と定義する価値観
  6. 伝統や神話、歴史を恣意的に編纂した「偉大な国家の物語」の共有
  7. 司法・警察と大手メディア(新聞・放送)の国家指導者への無条件服従

読書メモ「BUILD」(著:トニー・ファデル)

スティーブ・ジョブズはここから学ぶべき教訓をしっかりと学び、社内にも周知させた。B2BとB2Cを両方やろうとする会社は必ず失敗する、と。

 

プロダクトマネジャーあるいはプロダクトマーケティングマネジャー

プロダクトマーケティングプロダクトマネジメントは基本的に同じものだ。プロダクトマネージャーの役割とは、プロダクトにどんな機能を持たせるか決め、仕様(プロダクトがどのように機能するか)やメッセージ(顧客に伝えたい事実)を作成する。それから社内のほぼすべてのチーム(エンジニアリング、デザイン、カスタマー・サポート、財務、セールス、マーケティングなど)と協力しながらプロダクトの仕様を詰め、開発し、市場に送り込む。その過程でプロダクトが当初の意図を外れないように、骨抜きにならないように目を光らせる。だが何より重要なのは、プロダクトマネージャーは顧客の代弁者であることだ。各チームが顧客を喜ばせる、満足させる、という究極の目標を見失っていないか、常に目配りしなければならない。

 

理由は単純だ。チームには顧客の声を代弁する存在が必要だからだ。エンジニアはプロダクトに最先端のかっこいい技術を使おうとする。セールスはたくさん売れるプロダクトを作ろうとする。それに対してプロダクトマネジャーは顧客に最適なプロダクトを作る責任を負い、それだけに集中する。それがプロダクトマネジャーの仕事だ。

 

 

優れたプロダクトマネジャーはさまざまな機能を少しずつ、そして次に挙げた任務の大部分を担う。

  • プロダクトがどのような機能を持つかを定義し、長期的にどのように進化させていくかロードマップを作成する。
  • メッセージング・アクティベーション・マトリクスを作成し、アップデートしていく。
  • エンジニアリングチームと協力し、仕様通りにプロダクトを作る。
  • デザインチームと協力し、ターゲットとする顧客がプロダクトを直感的に使える魅力的なものに仕上げる。
  • マーケティングチームが消費者にメッセージを伝えるための効果的なクリエティブ素材をつくれるように技術的詳細を理解させる。
  • プロダクトを経営層に見せ、幹部からフィードバックを受ける。
  • セールスや財務チームと協力し、プロダクトの市場性を確かめ、最終的に収益化する道筋を確認する。
  • カスタマ―・サポートと協力し、必要な説明資料を作成し、問題に対応し、顧客からの要望や苦情を把握する。
  • PRと協力し、世間の反応を確かめ、プレスリリースの草稿を書き、広報担当の役割を果たす。

 

何もしないほうが得な日本(著:太田肇)

 ところで経営の分野では、一般に日本企業は労使関係も雇用も安定しているので長期的視点に立った経営が行えるのに対し、株主重視の欧米企業は短期志向になるといわれる。はたして、それがどこまで一般化できる話だろうか。

 たしかに、そういう面はある。しかし見方を変えると、欧米では組織と個人の利害が一致しないことを前提にしているため、長期的な発展に必要な制度を設ける。イノベーションを引き出すため個人に与えられるストックオプションなどのインセンティブや、大胆な人材抜擢などがその例である。政府も教育や起業支援に膨大な投資を行う。

 それに対し日本では、組織と個人の利害が対立関係にあるという割り切った見方をしないため、思い切ったインセンティブが必要だという認識も薄い。ここにも、むしろ対立を直視することによって長期的な視野に立てるという、やや逆説的な面がある。

 要するに組織や社会が個人より上位にあり、前者が後者を包摂する点では日本と差がないように見えても、組織や社会を形成するプロセスや、権力を支えているものが日本とはまったく違うということに注意しなければならない。

 したがって欧米では全体の利益と一致しない個の利益が存在することを前提に、組織や社会が設計されているのである。

 それに対し日本では、繰り返し述べているように全体の利益と個の利益が調和する事を暗黙の前提にして制度がつくられ、運用されている。そこには社会契約の意識、つまり自分の利益や権利から出発して制度をつくっているという実感がない。そのため国や組織に対するほんとうの忠誠心は湧かないし、主体性も責任感も生まれない。

 契約概念の有無は、ある意味で性悪説性善説の違いだともいえる。契約、ルールで明確にしておかないと利己的に振る舞う者が現れるかもしれないというのが欧米式の考え方であり、契約やルールで定めなくても利己的な行為をする者はいないと信じるのが日本式の考え方だ。

 問題は性善説に立つ以上、「性悪」な行為に対処できないことである。さらに「性悪」な行為が野放しにされ、得をするようになると正直者が馬鹿を見ることになり、「性善」な者まで「性悪」な振る舞いをするようになりかねない。

 要するに「何もしないほうが得」という態度は利己的であるが、その責任は個人にあるというより、むしろそのような仕組みを放置した側にあるといえるのではなかろうか。

 

 

「人を動かすナラティブ」(著:大治朋子)

  • 大交代理論の「核」をなすのは、1)自分たちの国は白人のものである、2)劣った人種が多数押し寄せ、優秀な白人は少数派に転落しそうである、3)国家的な脅威、危機であるーーーといった被害者意識だ。
  • ウクライナによる影響工作の勝因10
  1. 偽情報は修正するのではなく、あらかじめ暴露する
  2. ヒロイズムに訴える
  3. 都合の良い情報を取捨選択して出す
  4. 殉職者を神話化する
  5. 市民とともにあると訴える
  6. 市民の犠牲を強調する
  7. 市民の抵抗を最大化する
  8. 周囲の参戦を促す
  9. 自らの人間的側面を示す
  10. ユーモアを駆使する

 

  • ナラティブ思考は事実に基づいた思考というより、自由な物語の想像を許す思考です。人でないものを人に見立てたり、擬人的な思考や、事実を否定した半事実的な思考も含まれてきます。したがって、論理思考が一つの事実理解に収束する思考であるとするのに対し、ナラティブ思考は発散的思考とも呼ばれます。
  • 三つ目の伝承系ナラティブの形式は「伝説」だ。偉業を遂げた実在の人物や組織の伝説は心を打たれる。ただ、リアルと見せかけて実際は虚飾、脚色だらけの伝説もあるというから用心が必要だ。
     ダニエル・カーネマン氏は、企業伝説がいかに信用ならないかを指摘している。
    「企業の成功あるいは失敗の物語が読者の心を捉えて離さないのは、脳が欲しているものを与えてくれるからだ。それは、勝利にも敗北にも明らかな原因がありますよ、運だの必然的な平均回帰だのは無視してかまいませんよ、というメッセージである。こうした物語は『分かったような気になる』錯覚を誘発し、あっという間に価値のなくなる教訓を読者に垂れる。そして読者の方は、みなそれを信じたがっているのである」
    「矛盾や不一致がなく頭にすらすら入ってくるストーリーは受け入れやすい。だが認知が容易でつじつまが合っているからといって、真実だという保証にはならない。(脳内の)連想マシンは疑いを押さえつけるようにできており、いちばんもっともらしく見えるストーリーにうまくはまる考えや情報だけを呼び出す仕組みになっている」
  • 紛争ナラティブ(ダニエル・バルタル教授)
  1. 自己正当化:この戦いは自分たちにとって存在をかけた崇高なものだが、敵側が戦いを続ける合理的な理由は無い。
  2. 脅威の強調:この戦いは自分たちの生命、価値観、アイデンティティ、領土を脅かすものである
  3. 敵の非人間化、悪魔化:敵は人間ではなく悪魔や動物、ウイルス、ガンである。また相手の攻撃は野蛮であり合理性、人間性に欠ける
  4. 自集団の美化:自分たちは人間的で道徳的である
  5. 自集団の被害者化:過去に受けた傷も含め、常に被害者は自分たちである
  6. 愛国心の強調:勝利には犠牲が伴う

 

実験の民主主義(著:宇野重規)

前書き

 

 現代社会において、民主主義はあたかも「終わった」かのように語られる。目立つのは民主主義の原則をいとも簡単に踏みにじるポピュリスト指導者たちと、それを熱狂的に応援する支持者たちである。また、名ばかりの選挙を口実に、あるいはそれさえ抜きに権力を行使する権威主義国の独裁者たちである。かろうじて民主主義を維持している国々においても、国内における世論の分断は拡大するばかりで、危機を乗り越えるための合意にはほど遠い。どこを見ても、民主主義は「死んだ」、「壊れた」、「奪われた」、「失われた」、そして「操られている」と言わざるをえない。

 

編集者

若林恵「編集者は最初の読者だ」という言い方があるのですが、編集者は、言ってみれば著者と読者の間を取り持つ仕事ですので、専門性に傾いて著者と同化してはダメですし、コンテンツを度外視して読者と同化してもダメだったりします。少なくとも一般書や雑誌の編集においては、どんな分野においても、いい意味でアマチュアでないといけない。「アマチュアであることのプロ」であることが求められます。

宇野重規 面白いですね。特定の分野の知識をものすごく持っている編集者が、必ずしもいい編集者とは限らないですよね。編集者の価値はむしろ、著者が持っている固有な視点や知識を、社会のなかでどう有用化できるのかを考えるところにあると思います。加えて、そうした観点から、著者を社会にプロデュースすることです。
 学問の専門家というのは、強固なアカデミズムのなかで洗練や卓越を競っています。ですから、それは必ずしも社会的有用性とは直結していません。むしろ、そうでないことに意義があるわけですね。それがただちに社会に役に立つかどうかは、専門家の評価基準として間違っていると思います。むしろ、それぞれの学問に、その学問なりのディシプリン(専門性)による自己規律があって、卓越の論理があります。そこにおいてプロであることおが、専門家であることの誇りです。だからこそ、専門家を社会に結びつける最初の人として、編集者が存在する。

 

 

「J・S・ミル」(著:関口正司)

自由原理を根拠としない理由

 次にミルは、二つ目の課題として、重要な自由として認めるべきだが、自由原理を正当化の根拠としない自由を論じている。具体例とされているのは、商取引の自由である。

 商取引は、他者に大きな影響を与える行為である。危害をもたらすこともあり、本来的に他者に危害を与えることのない個人的行為とは区別する必要がある。「この原則の根拠は、本書で主張している個人の自由の原理と同程度に強固であるが、しかし、個人の自由の原理とは別のものである」(210頁)。その根拠は、規制よりも放任の方が社会全般の利益につながるという、経済の世界での一般的な事実にある。他方で、社会全般の利益(効用)に反する場合、たとえば、混ぜ物で品質をごまかすとか、労働者を保護しない労働契約など、危害を取引相手にもたらす事例は、当然のことながら規制や処罰の対象になる。

 ミルはさらに、商取引を含めたこの種の自由において当事者がつねに守るべきモラルについても、『自由論』の最初の章で次のように指摘している。

 

  こうした理由のために責任を課されないときには、行為者本人の良心が、空席と 

  なった裁判官の席に着いて、外からの保護を受けられない他の人々の利益を保護

  すべきである。そして、この場合は、他の人々の裁きに対して責任を負わなくて

  も良いのだから、なおさら厳格に自分を裁くべきなのである。(32頁)

 

 今日でも、やましい行為や品性を欠いた行為をしておきながら、自分は法令違反はしていないと言い訳をする人間がいる。しかし、法的な規制がない場合やなくなった場合でも、自分を律するモラルをなおざりにしてはならないというのが、ミルの考え方だった。

 

制度の積極的欠陥

 統治体制における積極的欠陥がもたらす弊害としてミルが注目するのは、統治権力による邪悪な利益(シニスター・インタレスト)の追求である。これは、ミルにとって、ベンサム主義に傾倒して以来のなじみ深いテーマだった。しかし、この問題は民主政的な統治では原理的に生じないという見方は、『自由論』の冒頭でも示されていたように、すでにミルははっきりと放棄していた。権力を持つ人間は誰であれ、邪悪な利益を追求する傾向を持っている。日常のふつうのふるまいでは良識や思慮を示していた人であっても、権力を持つと人が変わったようになる。

 

 ・・・自分が他者と共有している利益よりも自分の利己的利益を優先する性向と、自分の利益のうちで間接的な遠い将来の利益よりも目先の直接的利益を優先する性向という、今問題としている二つの邪悪な性向は、何にもまして特に権力を持つことで引き起こされ助長される特徴である。一人の個人でも一つの階級でも、権力を手にすると、その人の個人的利益やその階級だけの利益が、本人たちの目から見てまったく新たな重要度を帯びてくる。他人が自分を礼賛してくれるのを目にすることで、本人も自らの礼賛者となり、自分は他人の百倍も価値あるものと見られて当然だと思うようになる。その一方で、結果を気にせず好きなようにする手段が容易に得られるようになるために、結果を予測する習慣が、自分にまで影響が及んでくる結果に関してすらも、知らず知らずのうちに弱まっていく。これが、人は権力によって堕落するという、普遍的経験にもとづいた普遍的な格言の意味である。(114ー115頁)

 

 「権力は腐敗する」という格言は、耳にする機会が多いものであろう。しかし、なぜ腐敗するのか、腐敗をもたらす心理はどんなものか、というところまでに踏み込んだ議論はほとんどない。そのため批判の対象にこの格言を適用しても、批判している当事者にも同様の可能性があることにはなかなか思い至らない。しかし、自由を情熱的に求め抑圧に強く反発するミルは、そうであればこそ冷静に、権力を持つことの普遍的な心理的影響について鋭利な観察を示している。

 

 

 

 

「経営リーダーのための社会システム論」(著:宮台真司/野田智義)

男性の損得化が女性を損得化させる

 性的退却の背景に何があるのか、さらに踏み込みます。

 僕の聞き取りでは、性愛を避ける男性の多くが「コストパフォーマンスが悪い」と言います。勉強や仕事に追われて忙しい日々、女性と交際するとお金がかかるしトラブルも起きる。ささいな痴話ゲンカで関係が崩壊したりするからリスクマネジメントも大変。ならば、アダルト映像やアダルトゲームで、システム世界から便益をいいとこ取りしたい。そんなふうに損得勘定で性愛をとらえる男性ーーー僕の言い方では「損得化したクズ」ーーーが、増えました。

 次に、女性たちです。彼女たちはなぜ性愛を避けるようになったのか。多くの女性が口にするのは、「まともな男がいない」「経験を通じてうんざりした」という理由です。これはもっともです。ワークショップを通じた観察では、「女性の喜びを自分の喜びと感じ、女性の苦しみを自分の苦しみとして感じる能力」を持つまともな男性は200人に1人だから、女性が自分に告白してきた男性とつき合っても、たいていはイヤな経験をして終わります。

 パラメータ(周辺条件)についても考えます。今ほどではなくても、昔もクズな男性が一定割合いました。でも女性が生きていこうとすれば、男性を見つけて結婚するしかありませんでした。今は、仕事で成果を出したり資格を取得したりしてステータスアップを図れます。クズ男性とつき合うぐらいなら、ステータスアップに時間を使う方が合理的になります。

 これらすべてを踏まえて単純な図式にすると、まず、男性が損得化して、一部が性的に退却し、次に女性が損得化した男性とつき合って懲りて、一部が性的に退却した、という展開になっています。概略そういう形で、性愛からの退却が進んでいったのだと考えられます。