「諜報国家ロシア」(著:保坂三四郎)

 KGB陰謀論のなかで最も大きな成功を収めたのは、米国エイズ製造説だろう。この陰謀論は、1985年、ゴルバチョフソ連のトップに就き、レーガン米国大統領との最初の米ソ首脳会談が近づく中、核戦争を計画する「戦争国家」米国に対する「平和国家」ソ連というイメージを国際世論に植え付ける包括的な計画(戦略的偽情報)の下で実行された。

 他の陰謀論にも共通するが、KGBがゼロから米国エイズ製造説を考案したわけではない。すでに1983年頃から米国の同性愛者コミュニティの間では、エイズは、CIAがキューバに対し使用した生物兵器が米国に飛び火したものである、という噂が流布していた。KGBはこれに便乗した。1985年10月、KGBは、自らの影響下にあるインド日刊紙『パトリオット』の記事を引用する形で、ソ連大衆紙『文学新聞』にエイズウィルスは米国防省が開発した生物兵器である、という記事を掲載した。また信憑性を持たせるため、製造場所は、実際に存在し、生物兵器防護を研究している米国メリーランド州の米軍フォート・デトリック感染症医学研究所であるとした。このスクープに一部の西側メディアが飛びつく。米国エイズ製造説は、1987年末までに80ヵ国、計25言語の200の媒体で取り上げられた。日本でも『悪魔の遺伝子操作ーエイズは誰が何の目的で作ったか』と言うとタイトルの書籍が出された。

 1992年、プリマコフSVR長官は、米国エイズ製造説がKGBの捏造であることを公に認めた。しかし、同年、米国で実施された世論調査によれば、実に15%の回答者、アフリカ系米国人の5割がエイズウィルスは米国の研究所で人工的に製造されたものと信じていた。

 現代の陰謀論のテーマも同じである。2020年春、ロシアや中国のメディアは、米国エイズ製造説でも登場した米軍フォート・デトリック感染症医学研究所が新型コロナウィルスの製造元であるという説を展開した。また、2020年、ロシア情報機関はリトアニアのニュースサイトをハッキングし、NATO演習のためリトアニアに滞在する米国軍人がコロナウィルスに感染している、という記事を軽視あさいた。これは、ソ連時代にKGBが世界各地の米軍基地の近隣住民の不安を煽るため、米国軍人がエイズに感染しているという偽情報を広めたのと同じである。

 なぜ、陰謀論が受容されてしまうのか。とくにアフリカ・中南米諸国では、欧米の政治、文化、社会に対する偏見やステレオタイプが下地となり、質の低い捏造文書が「米国の悪」の象徴として拡散する傾向がある。一方、欧米諸国では、健全な寛容性や懐疑心を欠く極右及び極左のような極端な政治態度の者が標的となりやすい。信憑性の低い情報であっても、受け手の政治姿勢と共鳴して、陰謀論が受け入れられてしまうのである。

 

 

ポチョムキン

 18世紀後半の露土戦争でロシアは黒海北岸を獲得したが、この戦争を指揮した軍人グリゴリー・ポチョムキンは、クリミアに行幸するエカテリーナ二世に獲得地が豊かで繁栄しているように見せるため、張りぼての村を作ったとされる。このように、訪問者に対し、社会主義の「偉業」を見せるために選ばれた特定の工場、農場、研究所、文化施設KGB内部では「陳列用施設」と呼んだが、これも一種のポチョムキン村である。外国人に何を見せるかは党幹部が決定したが、KGBは「陳列用施設」の選定や案内ルートの決定、「ソ連の現実について誤解を与えるような欠陥」を取り除く役目を担った。

 別の言い方をすれば、ソ連を訪問する外国人が「見たいものを自由に見た」、「自ら結論を引き出した」という幻想を作るのがKGBの非公然の活動である。例えば、1930年代、英国の農業専門家ジョン・メイナードは、500万~600万人とも言われる餓死者を出し、スターリンによるジェノサイドともいわれる人為的な大飢饉(ホロドモール)が進行中のウクライナソ連統合国家政治局(OGPU。チェーカーの後継機関)の案内で訪問した。メイナードは、ロンドン帰国後、ウクライナに大規模な飢饉は無く、散発的な食糧不足があるのみだ、と主張した。同様に、英国の演劇作家のジョージ・バーナード・ショーは、OGPUのツアーから帰国後、宿泊したホテルには食料が豊富にあり、飢饉の証拠はないと述べた。ポチョムキン村の成功事例である。

 

ロシアが得意とする誤謬「ワタバウティズム」

 こんな小話がある。米国人がソ連人に聞いた。「ソ連のエンジニアの給料はいくらか?」。ソ連人は、しばらく黙り込んだ後こう切り返した。「だって米国人では黒人がリンチされているではありませんか。」

 これは、米国がソ連の人権問題を批判するとき、ソ連側代表が用いた典型的な切り返しを冗談にしたものである。冷戦時代、ソ連は議論を脱線させ、「そっちだって問題があるではないか(What about,,, ?)」というフレーズで西側の偽善を指摘した。西側の外交官や記者はこのソ連プロパガンダ技法を「ワタバウティズム(whataboutism)」と呼んだ。重要な事実から相手の注意を逸らそうとする「燻製ニシンの虚偽」という論理的誤謬である。

 

 

KGBのオフショア企業ーー消えた党資産

 1991年の8月クーデター失敗後、ロシア共和国大統領エリツィンは、ソ連共産党の活動停止と資産没収を命じたが、ロシア共和国担当者はソ連共産党の金庫が空っぽであることに気づいた。それから数日後、ニコライ・クルチナ党総務局長が、7階の自宅窓から落下して死亡した(KGBはすぐに「自殺」と断定した)。1カ月後にはクルチナの前任者のゲオルギー・パヴロフが自宅窓から投身「自殺」し、そのさらに八日後にドミトリー・リッソヴォリク党中央委員会国際部米国担当がバルコニーから投身「自殺」した。これらの党幹部は、党の金庫番として資金の流れを知り尽くす者たちであった。

 その前年、ベルリンの壁崩壊とともに解体された東独秘密警察シュタージの末路を見たクリュチコフKGB議長は、1990年12月、KGBの下部組織に対し、商業組織を立ち上げるように指示していた。万が一の時、これらの組織を党・KGBの隠れ蓑として使い、反体制派との闘争を続けるのが狙いだった。また、党幹部は、KGB第一総局が立ち上げた複数の海外企業の名義で西側の銀行に口座を開設し、ソ連崩壊の直前、90億ドルとも言われるソ連共産党の資産の大部分を海外に避難させたという。

 

 

また、ソ連崩壊後のロシアでは、情報機関と犯罪組織の癒着は日常的な光景になり、「元」KGB職員のコネや特殊技能は犯罪組織から重宝された。こうした状況下で、マフィアの協力によって、サンクトペテルブルグ市の経済犯罪を陰で牛耳り、台頭したのがプーチンであった。

 

 

 ソ連末期、タンボフ州出身のウラジーミル・クマリン(別名バルスコフ)らが中心になって犯罪集団が結成された。このタンボフ・マフィアはプーチンサンクトペテルブルグ市の対外経済委員長を務めていた間に、カジノ・ネットワーク、港湾施設、石油ターミナルなどを建設し、同市最大のマフィアに成長した。米国に移住した元KGB職員ユーリー・シュヴェッツによれば、FSBサンクトペテルブルグ局の密輸対策課長あったヴィクトル・イワノフ(のちにFSB経済保安局長)がタンボフ・マフィアの港湾利権獲得を太助、プーチンは市役所の側からマフィアの活動にお墨付きを与えた。

 また、1992年にプーチンと実業家ウラジーミル・スミルノフ(1996年にプーチンやウラジーミル・ヤクーニンらと一緒に別荘協同組合「オーゼロ」を設立)は、ドイツのフランクフルトを訪問し、地元投資家を説得して露独合弁会社「SPAG」を設立した。同社のサンクトペテルブルグ支社の理事会にはタンボフ・マフィアのクマリンが名を連ね、プーチンとゲルマン・グレフ(第一・二期プーチン政権の経済発展貿易相)が顧問に就任した。2000年、ドイツ捜査当局は、SPAG社社長をロシアの犯罪グループとコロンビアの麻薬組織の資金洗浄疑惑で逮捕した。

 プーチンが、エリツィン政権期の混乱、貧困、犯罪の蔓延を引き合いに出し、「90年代の悪夢」から脱却する安定や秩序のイメージで国民の支持を得たことは知られている。しかし、その悪夢の源泉は、プーチンが自ら作り出したFSB=マフィア=行政の三位一体体制の「システマ」なのである。