理念の国がきしむとき(著:中山俊宏)

  • トランプ大統領は、トランプ現象の設計者ではなく、むしろ彼自身がその症状であるという視点にたち、トランプ現象の底流で起きていることを炙り出していかないと、真の変動の度合いは浮かび上がってこない。
  • いまアメリカが分極化しているという時、それはある特定の争点で対立しているという状況ではもはやなくなっている。それは党派の選択が、ライフスタイルの選択であり、どのテレビ番組を見るかの選択であり、どの教会に行くかの選択であり、何を食べるかの選択であり、銃を持つか持たないかの選択とも直結している。要は党派選択(=政治的選択)が生活そのものを吞み込んでしまっているという状況だ。つまり、異なる党派の人々と政治的に共有できる部分を模索すること自体が、もはや形容矛盾になりつつあるということだ。党派が違えば、個人的人間関係さえこじれるということはむしろもう当然というわけだ。
    政治が生活の領域を呑み込む「政治の全体化」は、「政治的妥協」という概念を追放する。「政治的妥協」は、政治にできることは限られているという認識があってはじめて成立するが、いまのアメリカの置かれている状況はそれを不可能にしている。こうした状況は、「すべてのものが社会的となる国家は、ポリティカルであることをやめて、全体主義的になる」という永井陽之助の警句を想起させる。ここでいう「政治的なるもの(ポリティカル)」とは、高次の共通善を目指して対話可能な空間を維持するという意思それ自体のことだ。